花瓶
(作詞・作曲:角松敏生)
夢にまで見た白い教会、将来のしっかりとした彼と明日からの幸せな日々…。
鳴り響く教会の鐘。飛び立っていく白い鳩。
みんなの喜びの声。
幸せの絶頂…。
の、はず、なのに。この心の引っ掛かりは何だろう。この気持ちは…。
******
「まぁ、花嫁さん、きれいですねぇ。」
係の人に声をかけられる。
「なんだか、緊張してますね?元気がありませんね。」
「この子、マリッジブルーなんですよ」
母が笑いながら、応える。
マリッジブルー…。
そうなのかもしれない。
「結婚」に対する不安。割り切れない気持ち−−−忘れられない気持ち…。
忘れられない…。
チクッ…。胸の奥が痛む…。
ドウシテルダロウ、アノヒトハ、イマゴロ。
心の中に浮かび上がる…。あの人の優しい、笑顔…。
そして。
走馬灯のように駆け巡る思い出たち。あの人、との…。
あの人---1年前に別れた彼…。
誰よりも、今まで出会った誰よりも好きだった。愛してる、そう思ってた。
彼とは、あるライブハウスで知り合った。しっとりと、心の奥を歌う人だった。彼のその切ない歌声に魅了された。歌を、心から愛している人だった。
それから、偶然の再会。遠くからでも、私にはすぐにあの人がわかった。あの人は覚えていなかったけど(笑)。
いつのまにか一緒にいるようになって、楽しかった毎日。夢のように過ぎていった日々。
どうして、あの素敵な日々を手放してしまったのだろう。
私は何と引き換えに。小さな幸せと、大きな幸せと。
あの人はいつも夢を語っていた。自分には大きな夢がある、と。そんな彼が羨ましくもあり、小さな自慢でもあり。あの頃の、私のすべてだった…。
ああ、駄目だ。こんなことを考えていては…。
あんな人のことは忘れてしまおう。
もっと現実的な人と、普通の結婚をして、普通の人生を送って。
それが私の望んだことだったじゃない。
そして、その夢が今現実になろうとしている。
なんて、素敵なことでしょう。そうでしょ、私はそれを望んでいたのだから。
なのに…、この胸の重さはなんなんだろう…。
******
彼女がこの部屋を出ていったのはちょうど1年前のこと。
そして。
今日、彼女は結婚するらしい。
おせっかいな仲間たちから、いろいろ情報が入ってくる。一流企業のエリートとお見合いしたらしいとか、大きなダイヤの指輪をもらったらしいとか。俺にはしてあげられないことばかり。
ふと、自分の手の中の指輪を見つめる。
1年前、渡すはずだった指輪…。
こんなもの、いつまでも持ってるなんて、なんて吹っ切れないヤツなんだろう。
彼女は、俺の人生に突然現れた。
バーのカウンターで飲んでいる俺に、「ファンなんです」と声をかけてきた。ライブハウスで俺の歌を聞いた、と。
声をかけられることはたまにあるけど、彼女のキラキラした瞳に魅せられた。思わず、天使かと思って、背中の羽根を探してみたり(笑)。あるわけないのにね。
それから、なんとはなしに、目につくようになって。ライブなんかにもよく来てくれていて。
いつのまにか、一緒にいた。いつのまにか、離れられなくなっていた…。
なんで、こんなことになったんだろう。
あの日、ちょっとしたことで喧嘩になって。何が原因だったのか。今となってはもう記憶にないくらい、些細なこと。
歌に人生を賭けてる俺とは一緒にいられない、と、彼女は言った。保険も将来の保証も何もない、その日暮らしの俺とは一緒に生きられない、と。
出てゆく彼女を、俺は止めることができなかった。
確かに、保険も、将来の保証も、何もない。
俺の歌で癒されなくなった彼女に与えられるものを、俺は何も持ち合わせていない…。
愛している、そう感じるたった一人の女。
こんなにも大切な彼女を、自分の手で幸せにすることができない俺は、なんて駄目なやつなんだろう、そう思った。何度も悩んでみた。
就職活動でも、してみようか?安定した収入の、ちゃんとした「社会人」てやつになろうか?
彼女のために。
一度しかない人生、彼女に賭けてみようか?
そんなことを考えても、やはり。俺から歌をとったら、何も残らない。それは自分が一番わかっていることだから。彼女のために、違う自分になったところで、それで彼女は?俺から夢を奪ったことを悔やんだりしないか?彼女が好きなのは、歌う俺ではなかったか?
応えの出ない自問自答。堂々めぐりのラビリンス。
どんなに考えたところで、俺は俺でしかない。俺は他の誰にもなることができない。
そう気づいていたから。そうわかっていたから。
俺は追いかけなかった。そして。
今日は彼女の結婚式。
俺が幸せにするはずだった彼女の。
あの頃、君はいつも花瓶に花を絶やさなかったね。
君がいた頃の部屋は、いつも明るかった気がするよ。
君がいなくなってから、花瓶の花も枯れてしまった。
そして、今は……。
花の好きだった彼女に、花束でも届けようか。
教会はそんなに遠くない。これからいけば、終わりまでにはつけるに違いない。
これで、俺も吹っ切れる気がする。
彼女が心の区切りをつけたように、俺もそろそろ忘れなければいけない頃だろう。
******
鳴り響く教会の鐘。飛び立っていく白い鳩。
みんなの喜びの声。
幸せの絶頂…。
「さあ、行こうか」
父が照れながら、手を差し伸べる。
父親と腕を組むことなんて、この先無いんだろうな。
リハーサルの時から緊張しっぱなしの父の少し照れたような笑顔に、私も小さな笑みを浮かべる。
「よろしいですか?」
係りの人の問いに軽くうなずく父。
そして、私は…。
…本当にいいんだろうか。これで、本当にいいんだろうか…。
心の問いに、首をふる。これで、いいんだ。
父も喜んでる。母も喜んでる。みんな、祝福してくれる。
このまままっすぐ、この道を歩いて行こう。
突然、目の前が白く光る。
チャペルの白いバージンロードが、なんだか眩しい。
その向こうには…。
白いタキシード姿の彼がいた。私を愛して、大切にしてくれる彼。
これから、一生ずっと一緒に過ごしていく…。
父の隣から彼の隣へと移動して。
これからは、父ではなく、この人に守られて生きていく。私の人生のパートナー。
「キレイだね」
はにかみながら、小さくつぶやく彼。少し、緊張してる?でも、笑顔でいっぱいの表情。
絵に描いたような幸せな光景。
このままでいいの?本当に?
問い掛けてはいけない問いを、頭から払いのけながら。
「あなたはこの女性を妻とすることを誓いますか」
「誓います」
神父様の言葉に、力強く応える彼。
「あなたはこの男性を…?」
「…誓います」
応えてから、ちらっと彼を見つめる。
このままでいいの?本当に?
この式が終わったら、私はこの人の妻になってしまう。
この人の…。
いいのだろうか、これで、本当にいいのだろうか?
頭の中を埋め尽くす疑問の渦。
私は、本当にこんなことを望んでいたのだろうか?
私が好きだったのは、あの人の切ない、優しい歌声だったのではないか?
あの人の…。
安定した生活なんて、関係ない。
望んでいたのは、あの人とともに生きることだったのでは?
あの人と…。
「それでは、指輪の交換をしてください。」
彼が私の手をとり、指輪をはめる。
そして、私は…。
「どうしたの?」
彼が小さくつぶやく。
彼を見つめたまま、動かない…動けない私。
さわやかな、笑顔…でも。違う。
私の求めていたものは。
私がいつも一緒にいたい人は。
「…ちゃん?」
この人はいつも優しかった。私を温かく包んでくれた。
だけど。
「…ごめんなさい…」
私は、はめられたマリッジリングをはずすと、そのまま、白いバージンロードを引き返した。
バタンッ。
チャペルのドアが閉まる音。
これからの人生のスタートのように、心の中に響き渡る。
すぐに、あの人の元へ行こう。
このまま、すぐに、あの人のアパートへ行こう。
そして、この1年を、私の人生から消し去ってしまおう。
心の引っ掛かりが解消していく。
そうだ、私の望んでいたことは、そういうことだったんだ。
これで、失敗してもいいじゃないか。
自分に後悔する生き方だけはしたくない。もう、後悔はしたくない。
******
教会はもうすぐそばだった。
彼女のために買った白いユリの花を手に。
そろそろ、結婚式も終わっているのだろうか。
「…結婚式、か」
なんだか、足が重くなってきた。
やっぱり、彼女の幸せそうな笑顔を見るのは、少し苦痛かもしれない…。
そのとき。
天使が目に入った。
白いフワフワの衣装をつけた、輝くような天使。
羽根を広げて、走ってくる…。
その天使がだんだん近づいて、カタチになって…え?ウェディングドレス?
もしかして?
彼女も彼に気づいた。
両手を広げる彼女。
優しく、抱きしめる彼。
「逢いたかった。すぐに逢いたかったの。あなたに」
彼は驚きととまどいで、一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
「あなたの部屋の花瓶、これから毎日、私が水をあげたいの…」
これから、毎日…。
「これから、毎日?」
照れたようにこっくりうなずく彼女。
ようやく、笑顔を取り戻す彼。すべてを理解したように。
「花は…もう用意してあるんだよ」
そして、二人は、歩き出す。
まっすぐに、このまま寄り添いながら。
これからの、幸せに向かって。
<fin>