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勝手に Short Story 〜歌の中の風景〜



遠い街のどこかで… by 匿名Tさん
(作詞:渡辺美佳/作曲:中崎英也)



 ♪ハッピー メリイ クリスマス・・・

 今年も聴こえて来た美穂ちゃんのこの曲・・・ 毎年この季節になると、決まってラジオから流れるこの曲・・・ この曲を聴くとわたしはいつもあの日のことを思い出してしまいます。

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 「ごめんなさい、今日は行けなくなってしまったの」
今朝の母の一言がわたしを憂鬱にしてしまいました。
今日はサントリーホールでの「第九・合唱」コンサートの当日です。 短大に入ってからの目標の一つが合唱団に入ってこのホールで合唱を歌うことでした。
幸いに合唱団にも選ばれドイツ語の歌詞も一生懸命に覚えました。
始めはなかなか出なかった高い声も、練習の結果やっと出るようになったと言うのに、本番の当日になって一番見て欲しかった母が来れなくなるなんて・・・ なんだか喉の調子も悪くなってしまいそうです。

 会場に着くと、愛美がわたしに寄って来て、「どうしたの? 元気ないじゃん」と言います。 短大に入ってから出来た親友で一緒に合唱の練習をしました。 愛美は「今日、彼をお母さんに紹介するんだ」と大張り切りです。

 リハーサルが終わっても憂鬱な気分が晴れませんでした。
でも今日は母の他にもわたしが歌うのを見に来てくれる人がいるので、変な顔は見せられません。 いつもよりちょっと濃い目のお化粧をして、髪をアップにするといつもとちょっと違うわたしがいるようでした。
その人はパソコン通信で知り合った人で、美穂ちゃんのコンサートでは何度か顔を合わせたことがある人でした。
初めて話したのは、忍ちゃんが朗読劇「ラヴ・レター」に出演した時のことで、今日はそれ以来です。
わたしが第九で合唱を歌うことを書いたら、すぐに見に行くよって返事が来たのです。

 お揃いの白いブラウスを着て楽屋に集合すると緊張感が高まって来ます。 美穂ちゃんのコンサート前の緊張感が分かる気がしました。
口の中が乾いて来そうな気がして喉あめを一粒口にしました。
きちんと列を作って楽屋から出てステージ裏から入ります。
バックステージの決められた位置に着くと、思ったよりも高いのにちょっと驚きです。 その高さと緊張とで足が震えてくるようでした。
落ち着こうと思い客席を眺めると、一列目にその人がいるのを見つけました。 きょろきょろしなくても済みました。 後で聞いたら、その人はわたしを見つけるのが大変だったらしいです。
みんな同じ格好をしているので無理もありません。
でも、立ち位置は教えておいたはずなのに。

 合唱は思ったよりもうまく歌えました。 ステージから降りるとみんな感激のあまり泣いたり抱き合ったりしています。 わたしも愛美と抱き合いながら涙を流してしまいました。
愛美から「今日は一緒に帰ろう」と言われ、「うん」と答えました。

 楽屋前の通路には幾つかのテーブルが置かれています。 その上には花束がたくさん並べられていました。 花束のひとつひとつに名札が付いていて贈られた人の名前が書いてありました。
わたしは「いいなぁ 綺麗だなぁ」と自分には関係無いその花束を横目で見ながら歩いていると、終わり近くになってわたしのHNが書かれている名札を見つけたのです。
 「これって、わたしに・・・?」
信じれない気持ちで、その赤いバラの花束に付いていた名札を裏返すと、そこにはやはり別のHNが書いてありました。
わたしは嬉しくて思わず涙を流してしまいました。
花束を貰うことなんて始めての経験でしたから。

 待っていて欲しい・・・ と思いながら、急いで着替えて外に出ると、その人はホール前の離れたところにひとりでいました。
わたしを見つけるとかすかに微笑んだようでした。
わたしは一緒にいた愛美に「今日は・・・ ゴメン」と言ってその人のところに走って行きました。
 「ありがとう」 その一言だけ言えただけでした。 わたしはどんな顔をしていたのでしょう。
 「帰る?」 と聞かれてふと気が付くと、愛美が心配そうな顔をしてわたしを見ています。
わたしは「はい」と答えて、愛美に向かって手を振りました。

 二人で地下鉄の駅に向かって歩きました。 その間に何を話したのかは覚えていません。
その日、わたしは初めて自分から男の人を誘って喫茶店に入りました。
いつもは無口のはずのわたしが、ほとんどずっと話をしていました。
自分のこと、学校のこと、そして美穂ちゃんのことをとりとめなく話したと思います。 実はやっぱり覚えてないのです。

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 あれから何年経ってもこの季節にこの歌を聴くと、またあの日のことを思い出してしまいます。
ドライフラワーにしてずっとわたしの部屋に飾ってあったあのバラも、引越しの時に整理してしまいました。
今年はとうとう美穂ちゃんのコンサートにも行くことは出来ませんでした。
美穂ちゃんは歌ってくれたのでしょうか?
あの人が一番好きだったこの曲を。

 わたしは今、幸せに暮らしています。
 遠い街のどこかで・・・





<fin>
OVER THE MOON